背骨の感覚とからだの中心は?
Dry Summer by Christian Kortum
導かれるまま。
避けて通れない出来事に果敢に挑む。
そしてそこに集中していると見えてくる。
興味深い視点が、、、、
ヴィーガンになったきっかけは、
人間のからだに自然法則があるって聴いたから。
私の興味のツボはそこでした。
それはすなわち、こういうこと。
As Above so Below.
As Within so Without.
上の如く、下も然り。
内の如く、外も然り 。
この法則を全てに見出していくといつの間にか、
自分の道が見えてくる。
今まで通ってきた道を振り返ると、
そこには自分の足跡が👣あるのと同時に、
自分の意識には、特殊な力が備わって行ったことが理解できる。
平たくいうと「経験値」ってこと。
自分の歴史ってものは、経験値の集積。
年表にしてしまうと、
過去ー現在ー未来という配列になってしまい、
直線的な思考回路からは何も生み出せない。
経験値を集積として捉えると、
それらの小さな経験やイベントが融合して、
化学反応のようなものを起こす。
実はこの記事は、
2018年に下書きフォルダに残してあったものなんです。
3枚の頸椎のデータのみ添付され、
タイトル「背骨の感覚とからだの中心は?」
が表示されているのみでした。
偶然今朝、見つけました。
きっと今、
このタイトルのお題に答える時なんでしょうね。
背骨とは、意識の中心。
そこにフォーカスすることで、
人間としてのオーガニックシステムの可能性が、
限りなく広がる。
そう感じます。
そうなると明るい未来と呼ぶ世界が開けて行きます。
新たな世界。これがリアリティに違いありません❣️
では、それまでの世界をざっとおさらいしてみます。
西洋医学が到来し、部分的断片的見識が、
私たちに浸透して「限界」という概念がすっかり意識の大半を占領。
ここで大いなる自然とも離別をしてしまいました。
病院が沢山の「◯◯科」に分かれているのは、そのためで、
からだは一つなのに、別々の専門医にかからなければならないことに、疑問を持つ人はいらっしゃらないようですね。
"Medical Education in the United States and Canada" (1910年)チェコ系ユダヤ人のエイブラハム・フレクスナー(Abraham Flexner)著
医師の教育制度免許制度がこの頃から確立しました。
大きな流れは「資格制度」「教育制度」「集権制度」によって、
大自然の原理から完全に逸脱してしまいました。
私たちの思考も分断。
あら〜
そういうことだったんですね。
なるほど。
ヴィーガンになった経緯を振り返り、
そこに集積された「からだを通してわかったこと」を、みてみました。
さらに「意識」と「サイエンス」の実験、
そして「細胞」「微生物」「DNA」、
さらに「ソマティクス(身体学)」「ダンス」、
それぞれの共通する法則が浮き彫りになっていたのでした。
言葉に表すのは難しいですが、
行動で表すことはできる。
その一つの例をここに挙げておきますね。
私の首の後ろにあった横一文字のシワ。
これがここ5年で完全に消えました。
頸椎にあった問題の根本的な問題が、
解決したことになります。
からだはメッセージを常に発信しています。
治療院に行って、そこの部分の修繕をしてくれと言っているのではありません。
何故なら、その原因を作っているのはあなた自身わたし自身であるからです。
首に現れていた問題は、
ものの見方や主観、永遠性や生命に関する限定的な思考でした。
視野が広がり、柔軟な態度や思考体系が、
自尊心に繋がり、
意識のセンターの一つである「背骨」と融合したことで、
背骨がその存在を楽しむようになりました。
さらにチャレンジは続きます。
とっても楽しみです。